国際研修 浜名 Diary
東大水産実験所
9/11 午後、我々は静岡県浜松市に到着し東大水産実験所に向かいました。東大水産研究所 は浜名湖湖口に近い弁天島にある東京大学大学院農学生命科学研究科の付属実験施設の一 つで、水産増養殖に関わる基礎研究の場としての役割と浜名湖でのフィールド調査の際の 基地としての役割を担っています。まず我々は水産研究所の平瀬先生より水産研究所と浜 名湖の概要、そして水産研究所で行われている研究と平瀬先生ご自身の研究に関する話を 伺いました。講義後は水産研究所を案内していただき、トラフグを飼育している水槽や海水 を施設内に引き込むためのポンプなどを見せていただきました。また東日本大震災後に設 置された屋上の津波タワーも見学しました。
新居関所
12 日、国際研修の最終日が始まりました。2 週間一緒に過ごした皆とのお別れは非常に悲しいことです。朝は 1600 年代に建てられた新居関への訪問から始まりました。新居関は京 都と江戶を結ぶ東海道の重要な関所でした。 江戶幕府は、観光客、旅行者、漁師、貿易業者など、この地域を訪れるすべての人と貨物をチェックして選別することができました。 浜名湖は浅い港として検問所まで延びており、建物の正面には水位と係留柱が保存されていました。
新居関に勤める役人の模型
この関所は、耐災害性の構造を持たなかったため、地震、津波、台風の被害のために 2 度海 岸から離れた場所に再建築され、1700 年代に現在の場所に移動しました 。 再建には 1 年 以上かかる場合があり、その間関所はブロックされ、通過不可となりました。 通行止めは旅行者にとって大きな問題でしたが、幕府の安定を維持するために不可欠でした。 新居関 は現存する江戶時代最後のチェックポイントであり、歴史を覗くことができます。
新居宿旅籠紀伊国屋資料館
また、当時の宿を改装した資料館を訪れました。江戶時代の旅行者は、到着日に関所を通過 できなかった場合、毎晩 8000 円程度支払う必要がありました。 枕用の木のブロックから は決して快適でない様子が伺え、我々の多くはここでの一泊は高すぎるという意見で一致 しました。
太田川低地新居関所を後にした我々は、津波堆積物を観察するため太田川低地を目指しました。ここで 近年発見された地層からは 4 つの津波堆積物が確認され、我々は今回その中で最も若い 1498 年の明応地震による津波で形成された津波堆積物を観察しました。明応地震による津 波は、当時淡水湖であった浜名湖を太平洋に繋げた津波としても知られています。 今回観察した堆積物が津波堆積物であると認められた根拠の一つは、堆積物中にガーネッ トが含まれていたことです。ガーネットは通常この地域の河川堆積物には確認されないため、ガーネットを含むこの堆積物は太田川によって運搬されたものではないと考えられま す。一方天⻯川によって運ばれてきたこの近くの海岸の堆積物にはガーネットが含まれます。これは天⻯川の土砂の供給源となる岩石は変成岩帯にあり、その岩石中に含まれるガー ネットが天⻯川によって海へと運搬されるためです。以上のことを踏まえると、津波によって海岸の砂が太田川低地まで運ばれ、津波堆積物として堆積したと考えられます。 太田川低地の津波堆積物は層厚 20cm ほどで、褐色の砂の層と灰色の粘土層が互層となって いるのが確認されました。この褐色の砂の層と灰色の粘土層が1セットとなっていて、1 回 の津波で形成されたことを示します。この層にはこのような砂と泥の層のセットがいくつ も見られ、この地域を複数回の押し波と引き波が襲い津波堆積物が形成されたことを理解 しました。 特に興味深かったのは岩沼市立図書館で観察した東日本大震災の津波堆積物との違いです。 岩沼市立図書館で見た剥ぎ取り標本の津波堆積物も層厚 25cm ほどでの砂と泥の層でした が、全体的に砂の粒径は大きく、堆積部中には礫も観察されました。一方太田川低地の津波 堆積物の粒径は全体的に小さかったです。岩沼市立図書館の剥ぎ取り標本が採取されたの は海岸から 1.2km の場所に、太田川低地は海岸から2km の場所に位置しています。このよ うな海岸からの距離の違いが今回観察した 2 つの津波堆積物の粒径の違いに関係している と考えられます。同じように津波によって形成された堆積物といってもその性状は大きく 異なり、津波堆積物を同定することの難しさを感じました。
湊命山・中新田命山
9 月 12 日木曜日、昼食を終えた我々は、袋井市にある湊命山と中新田命山を訪れました。 これがこの国際巡検で周る最後のレクチャースポットということもあり、少し寂しく感じました。
まず我々は 2011 年の東北地方の大震災以降津波から市⺠の命を守るため建設された湊命山 を訪れました。
この命山の高さは海抜10mで、収容スペースは 1300 平方m、大人 1 人1平方メートルを 基準とし、最大 1300 人収容できます。湊命山は海岸から 1.3 km離れており、過去の津波も その地点では 10m を超えるものはなく、建設する際、海抜 10m に高さを設定したそうで す。 この命山の頂上を訪れた際、食料飲料などの備蓄を確認できず、ガイドの方に聞いたところ、 もともとこの命山はここで⻑い時間を過ごすために建てられたものではないということを 教えていただきました。津波が着た際の一時的な避難場所として建設されたことを理解しました。
次に訪れたのは中新田命山でした。
この命山は江戶時代の延宝 8(1680)年に各地に大きな被害を及ぼした大型の台風と洪水によりこの村で 300 人以上が亡くなったことから、台風、洪水対策として、生き延びた村人たちによって建築されました。芝刈りをする前だったので山には上ることはできませんで したが、湊命山に比べて規模が小さく感じました。ガイドの方に伺ったところ、中新田命山 の頂上平場の面積は 68 平方mであることを教えていただき、やはり規模は小さいものであったことを確認できました。 中新田命山を後にし、バスで移動を開始すると、大規模な命山が中新田命山のほぼ真裏にあ ることが窓から確認できました。後から調べたところこれは中新田地区命山「きぼうの丘」 と呼ばれるもので、高さは海抜 10m、収容スペースは 400 平方mで、約 400 人を収容できる大きなものでした。中新田命山は現在では記念碑として存在しており、現在では津波や台風の際住⺠はきぼうの丘に避難をする計画になっていることがわかりました。
(太田、レゲット、清水)