国際研修 仙台 Diary
唐桑半島ビジターセンター
9月6日金曜日、まず私たちは宮城県気仙沼市にある唐桑半島ビジターセンターを訪れました。ここを訪れた目的は津波によって運ばれて来た巨礫(津波石)を観察するためと、ビジターセンターに併設されている津波体験装置で津波の映像を視聴するためです。 最初に私たちはガイドの千葉さんの案内のもと、2011年3月11日の東日本大震災によって生じた大津波で打ち上げられた津波石がある場所を目指しました。唐桑半島にはリアス海岸という地形が特徴的に見られ、その複雑な海岸線により津波は入り江に到達すると急激に高くなります。今回訪れた場所では直径1メートル以上の5個の津波石を観察することができました。津波石の特徴は礫に白い付着物が見られることで、これはもともと礫が海底にあったときに付着していた貝や藻が陸上に打ち上げられることによって死骸となったものであると 考えられます。ただしこの白い付着物は年月とともに消滅していくため、長い時間が経った津波石を見分けることは困難になっていきます。今回観察した津波石の中には直径が約5m のものもあり、これだけ巨大なものを海から運んでくる津波のエネルギーがどれだけ大きなものであるか改めて認識しました。津波体験館への帰路の途中には今は防潮堤となっている農地跡がありました。ここは過去にこの地域を津波が襲ったときに当時農地だった場所を防波堤に変える形で作られました。特にここで印象的だったのは「東日本大震災後に多くのコ ンクリート製の防潮堤が作られたが、可能ならこのようないずれ自然に帰る防潮堤を作って欲しかった」という千葉さんの言葉でした。大槌町のワークショップでも考えたように、 人々の生活の安全を守ることとその地域の特色を受け継いでいくことという防災において時に相反するこの問題を解決することの難しさを感じました。 津波石の観察後はビジターセンターに併設されている津波体験館を訪れました。ここは東日 本大震災以前よりある国内最初の津波体験施設となっており、津波の映像だけでなく椅子の振動や正面から吹いてくる風が映像に組み合わされることで、より実感的に津波の脅威を体 験できる施設となっています。一方映像の中には住民の方々のインタビューもあり、この地域の方々ががどれだけこの地域のことを大切に思っているかを理解することができる内容で した。
観察した津波石 農地跡に作られた防波堤
昼食 陸前高田市9月6日金曜日のお昼は、岩手県陸前高田市のりくカフェで昼食をいただきました。りくカフェは震災後、被災した方々に新しい希望を持ってもらうために、地域の方々の健康づくり と交流を推進する場として、地元の医師たちや女性たち、まちづくりの専門家らが立ち上げたものです。東大の工学部の教授も事業に関わっているとのことでした。ここでは健康習慣を実際に体験することを重視しており、管理栄養士が毎週メニューを考案し、塩分は2g前後、カロリーは600kcal程度、野菜は100g程度など、適切な量を体感できる工夫がなされて います。りくカフェは食事の場であるだけでなく、地域の方の健康づくりの一環で、体操や茶摘みなど様々なイベントを催しているとのことです。食事中のお店の方との会話を通し て、この土地の人々の温かい雰囲気や、周りへの感謝を忘れず支えあいながら生きている様子が感じられました。
陸前高田市のりくカフェ 管理栄養士が考案した健康的な昼食
岩沼市民図書館 夕方、私たちは宮城県の岩沼市民図書館を訪れ、震災後に採掘された、堆積物の断面を見学しました。この土地が経験した自然災害ごとに特徴的な層が形成されるため、過去1000年 間に少なくとも3度の津波と1度の火山噴火があったことが見て取れました。文書として残された資料からだけでなく堆積物からも過去の自然災害の影響が分かるという点が、非常に興味深かったです。最も上位には東日本大震災の際の津波でもたらされた砂が25cmほど堆積しており、その下位の泥の層をえぐったような形跡があることから、当時の津波の威力が 想像されました。
岩沼市民図書館に展示された剥ぎ取り標本
名取市閖上9月7日土曜日はまず、宮城県名取市の閖上の「名取市震災メモリアル公園」に行きました。この地区は津波で浸水した区域です。災害危険区域に指定されているため、今は人々は 住んでいません。名取市では944人の方が、東日本大震災の際の津波で犠牲となりました。
私たちは急な階段を上って神社がある丘の上へ行きました。この丘はこの周辺で働く人のための津波の際の避難場所とされていましたが、2011年の津波の際には浸水しました。
(左)丘の上の松の木。津波を被った高さまで枝はない
(右)丘の下のパネルにはかつてのこの周辺の様子と今の様子が比較されていた
パネルには神社のそばにお祭りの屋台が並んでいるところなどかつての海辺の町の平穏な光景が映されており、胸が苦しくなりました。
かつての津波の記録 芽生えの塔
丘の下には昔の石碑が4つあります。この石碑は本来丘の上にありましたが、津波の際に下に押し流されました。この石碑の内のひとつは、昭和八年の津波の際の教訓が書かれていました。住民たちはかつての教えを忘れてしまっていたのでしょうか。
この白いモニュメントの高さは2011年3月にこの地域を襲った津波と同じ高さ(下の丘の高さを含む)です。モニュメントの下の石碑には現在の天皇皇后両陛下の詩や、津波で犠牲に なった人々の名前などが刻まれていました。
荒浜小学校
次に私たちは宮城県仙台市の荒浜小学校へ行きました。荒浜町には2011年3月当時、800世帯2200人が住んでおりましたが、190人以上の町民が津波により命を失いました。 荒浜城学校には320人避難し(内、71人が児童)、無事でした。避難した人全員の命が助 かったこともあり、記念館として残すことを地元住民が望んだため、2017年4月より震災遺構として公開しています。語り部の川村さんに校舎の中を案内してもらいました。
荒浜小学校校舎 2階には津波が浸水した跡が残っている
津波により壊れた校舎2階のベランダ
津波による被害を受けた校舎の1、2階を見学した後で、4階で記録フィルムを見ました。 フィルムを観た教室は津波が来た3月11日のままで、私たちは小学校の椅子に座って観ました。フィルムの中では津波当時の様子について校長や町内会長などによって語られていました。津波は黒い雲のように押し寄せてきたことや、家が目の前で流されていくことが現実的に捉えることができなかったことなど、鮮明に体験者の言葉として語られており、心に残りました。 この小学校では2010年に津波の避難の方針を、屋上に即避難するように変更して訓練をしていたことにより、児童の命が助かりました。良かれと思うことは全てやっておくべきだと語っていました。 記録フィルムの視聴後、私たちは震災前の町のジオラマを見学し、その後屋上に登って現在の学校周辺の様子とを比べました。震災前には同校周辺にはたくさんの住宅があり、海岸には松の木がたくさん植わっていましたが、震災で流され、今は津波の高さ以上の枝しか残っていません。また、川村さんより、震災時避難していた児童たちは寒い中屋上に続く階段でヘリの救助を1年生から順番に並んで待っていたという話を聞き、当時の状況の過酷さが伺えました。最後の6年生の児童が救助されたのは、翌朝5時だったそうです。地元住民まで含めると、全員が救助されたのは地震発生翌日の夜18時半だったとのことでした。
旗が立っているのが荒浜小学校。住宅街の中にあったことが分かる
津波でたくさんの命が犠牲になったことはもちろんのこと、津波が押し寄せ全て流されてしまった町はそこに住んでいた人々が愛した故郷であり、人々が大事にしてきた文化があり、それが失われたことは大変痛ましいことだと思いました。
中浜小学校
9月7日土曜日の午後は、宮城県亘理郡山元町にある中浜小学校を訪れ、同町立山下中学校元校長の渡辺さんに当時の状況を伺いました。中浜小学校には同校児童と教職員および地域 住民の計90人が避難しました。彼らの本来の避難場所は、山の向こうに位置する坂本中学校で、小学生の足で30分ほどの距離でした。小学校は2階建てで、高い津波から逃げられな いためです。しかし、地震発生後に津波があと10分で到達するという情報を得たため、小学校の校長は校舎の2階の上にある屋根裏への垂直避難を決定しました。その判断が全員を救うことになります。津波は海抜10mで押し寄せ、屋根裏部分はかろうじて被害を免れまし た。小学校が建設された31年前に、土台部分を盛り土して周りの土地よりも2-3m高い場所に建てていたことも幸いしました。また、実際に発生した津波は合計4回で、3回目と4回目 の津波は20m以上の高さでした。しかし、3回目の津波は2回目の津波の引き波に砕かれ、4回目の津波は自重に堪えられず崩壊しました。これらの偶然がこの小学校に避難した人々を救ったといえます。ただ、山元町全体では637人の方が亡くなり、そのうち中浜で犠牲になった方は137名でした。地震があったら津波に備えてすぐ逃げる、ということを後世へ喚起する津波石があったにも関わらず、人々は存在を忘れていたといいます。日本は地震や津波だけでなく、火山や大雨、土砂崩れなど様々な自然災害が起こる可能性を有しています。 悲劇を繰り返さないためには、その場で起こった出来事を語り継ぎ、自然災害の恐ろしさを忘れないことが重要だと、語り部の渡辺さんは強調されていました。
中浜小学校の語り部の渡辺さん。バスの側面にたくさんの写真を用意してくださった。
山元町は、震災後の報道量が最も少なく、それに比例して義援金も被災地の中で最も少なかったそうです。渡辺さんはその状況を憂い、黄色いハンカチを5000枚たなびかせました。黄色には、被災した人々を元気づけ、勇気を与える意味があると同時に、目立つという 重要な意味を持っています。この黄色のハンカチによって多くの報道機関が取材に訪れ、現在の天皇皇后両陛下も被災者お見舞のご訪問をなさったそうです。黄色いハンカチは毎年交換されているそうで、私たちも、一人一人メッセージを書いて届けることになりました。
中浜小学校は来年4月から震災遺構として公開され、児童・教職員・住民らが15時間待機を強いられた屋根裏部分も見学することができるそうです。外から見るだけではその壮絶さは想像することしかできません。私たちは今回見聞きして学んだことを心に刻み、防災への意識を高く持ち続け、非常の際には責任をもって自分の命を守る行動をしなければならないと思いました。
中浜小学校と黄色いハンカチ
(清水祐輔、三木あかり、森井志織)