Group D Diary Day 10 (9/15)
新居の関所・紀伊國屋旅館
新居の関所は静岡県湖西市に位置する、旧東海道の関所である。旧東海道においては箱根の関所と同様の重要な役割を任されていた。
新居の関所の前身となる今切の関所は1600年に浜名湖口に設置され、その後度重なる被災をへて1708年に現在地に移転した。現在新居の関所は内陸に位置しているが、江戸時代の浜名湖は今よりも広く、関所は湖岸に位置していたと見られている。当時、西から江戸に入るには(あるいは、江戸から西へ向かうには)浜名湖を船で渡らなければならなかった。というのも、浜名湖の周囲は山に囲まれており、人が移動するのに適した道がなかったからである。江戸に出入りするための唯一の通行路であるこの地では、鉄砲をはじめとする武器の持ち込みや、江戸に人質として住まわされている大名の妻子の通行に関して特に注意が払われていた。
現在現存する建物は1854年の安政地震・津波の被害を受けて倒壊したものを再建したものであるが、随所に江戸時代の建築様式が見受けられることから、歴史的に貴重であるとされている。新居の関所の面番所の襖の高さは現在の日本の住宅で見られる襖に比べて低く、天井も近かった。これは当時の日本人の平均身長が現在よりも低かったためであり、頭をぶつけてしまった学生も数人いた。
ANUの学生からは当時の建物がよく保存されていることに驚く声が聴かれたが、これは後年の補修工事によるものが大きい。この他にも、ANUの学生からは徳川幕府の統治方法(参勤交代、大名証人制度)に対して感心する声も上がっていた。(とはいえ徳川幕府は封建的な政権で、市民の自由も制限されていたし女性差別も当たり前だったわけだが、それでいいのだろうか…?)
新居の関所見学後、私たちは紀伊国屋旅館を見学した。この旅館は戦前まで旅館として営業していたものを保存したものであり、新居の関所と同様に江戸時代の建築様式を一部に残している。なお、紀伊国屋旅籠の二階の天井が低い理由は新居の関所とは少し異なっている。実は、この建物の二階部分はかつて屋根裏部屋として使われていたのである。江戸時代の建物は平屋が普通で、二階建てはまれであり、この建物も元々は屋根裏がある平屋であったという。
太田川低地
その後、私たちは太田川低地で15世紀末の明応地震の津波堆積物を観察した。この津波堆積物の下には(今回の見学では観察することは出来なかったが)7世紀、9世紀、11世紀の津波堆積物が存在する。とくに、7世紀の津波堆積物はかつて西方でしか見つかっていなかったため、南海トラフ巨大地震の長期的な発生予測に貢献する可能性があり、非常に重要な発見である。
一般に、津波堆積物と洪水堆積物の区別は困難であるとされている。厚い泥層に薄い砂層が挟まっているだけでは、何らかの環境変化によってもたらされたイベント堆積物と判断することはできても、津波堆積物とは判断できない。太田川低地で発見された砂層が津波堆積物と判断された根拠は、泥(シルト)層に挟在する砂層が海岸から内陸に向かって連続的に分布し次第に厚さが減少していったことと、津波が繰り返し襲来したことを示す砂泥互層が粘土層中にはっきりと確認できたことである。
湊命山、中新田命山[新]
津波から身を守るための避難場所。浜名湖の海側に作られていた堤防(道路)もそうだが、予想以上に南海トラフ地震による津波への対策が進んでおり驚いた。倒壊した家屋などのデブリが流れてくることを想定して高めに建設しないといけないという話は大変興味深く感じた。命山を出発した後の道中にも多くの津波避難タワーが見られ、静岡県の津波への高い危機感を感じ取ることができた。
・中新田命山[旧]
高潮から身を守るための避難場所。桜の木が不自然に多く植えられており、「盛り土の固定のためではないか?」と同じグループの学生に聞いてみたところ、「わからないが、竹をはじめとした表面にのみ根を張る植物を植えることは土の固定の観点からは逆効果だ」という回答が返ってきて大変興味深く感じた。また、虫など気にせずに命山を登っていくANUの学生たちの姿からは彼ら彼女らの学習意欲の高さが垣間見えた。
この度の国際研修は、当事者として我々日本人が特に知っておかねばならない津波のこと、火山活動のことを学べた点、そして何よりも多くの素晴らしい友人を得られた点においてかけがえのない経験となりました。対面開催を実現しサポートしてくださった先生方、事務員の方々、TAの方々に心より感謝申し上げます。